<幸福とは何か?~哲学者たちが考えていたこと~>
こんにちは。Jikosです。
しばらくぶりです。
今日は、著作『幸福とは何か ソクラテスからアラン、ラッセルまで』を読んだことについて考えます。長谷川 宏氏が書かれたタイトル通り、「幸せとは」についての問いを古代~現代の哲学者たちの思想を引用して、展開しています。
このブログのテーマとも密接に関わっていることなので、よく読んでみました。が、難解でした。(笑)個人的な感想です。
現代人もさることながら、古代から人間にとっての最大級の問いですね。幸福とは一体何なんでしょうか?
哲学者たちの「幸福とは何か」に対しての見解をピックアップしてみましょう。
「幸福は、最高善」アリストテレス
行動の目的となる善には、さまざまな種類があり、善の程度には、大小・高低のちがいがある。中で、最も高い、最も優れた善を「最高善」と名付け、その特質を「完結した目的」「自足した目的」「最も望ましい目的」といったふうに定義する。
最高善とは、人間のめざすべき最高の目的であり、それを目指すことが人間にとってこの上ない生きがいとなる。これが、「幸福」である。
⇒すごい真面目ですね。完璧主義とでもいうのでしょうか?THE哲人の思想といえるでしょう。
自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者のもとにおいてきた。われわれが、何をやらねばならぬか指示し、なにをするであろうか決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。苦痛と快楽とは、われわれが行うすべてのこと、われわれのいうすべてのこと、われわれが考えるすべてのことについて、われわれを支配しているのであって、このような従属を払いのけるためにどんなに努力しようとも、その努力はこのような従属を証明し、確認するのに役立つであろう。功利性の原理はそのような従属を承認し、そのような従属を功利性の思想体系の基礎と考えるのであって、その思想体系の目的は、理性と法律の手を借りて、幸福の構造を生み出すことである。
⇒解説によると、ベンサムは、「苦痛」と「快楽」という「経験」こそが、幸福を生み出すものだと言っているそうです。
人間が社会の中で他人とともに行動し、快苦、憎悪、幸不幸のあらゆる場面で他人と交わることこそが人間の本来の姿である。と言っています。他人と共感することともとれますね。
「常識の立場」ラッセル
わたしの目的は、文明国の大多数の人が苦しんでいる、日々の、ありふれた不幸にたいする一つの治療法を提示することにある。その不幸は明確な外的原因をもたないために、逃れがたいものに思え、それゆえにいっそう耐え難いものとなっている。わたしの信じるところ、この不幸はその大半がまちがった世界観、まちがった倫理、まちがった生活習慣によるもので、それが昂じると、人間であれ動物であれ、すべての幸福の大本となる、さまざまなものごとにたいする自然な熱意や欲求が破壊されるのである。こうした事柄は個人の力でどうにかなることであって、だからわたしの提案しようとする変化は、個人が人並みの幸運にめぐまれれば自分の幸福を達成できるような、そんな変化である。
⇒言いたいことは、気の持ちようだとうことですね。本人が不幸と思うかどうか、その不幸が深刻かどうかは、見方を変えれば、また不幸は、本人の気の持ちようで乗り越えられちゃうっていうことを言いたいのかなと。すごいポジティブシンキング!
加えてー
幸福の秘訣はこう定式化できる。あなたの興味をできるだけ広範囲なものとすること、そして、あなたの興味をそそるものごとや人物に対するあなたの反応を、敵対的なものではなく、できるだけ友好的なものとすること。
⇒これは、社会に生きる人間がばらばらな個に分断され、孤立が強いられ、興味が分断された現代において、興味を広範囲に広げること、ものごとや人物への興味をできるだけ友好的なものにすることが、病的な社会を苦しまずに生きるための処方だとしています。要は、いろんなことに興味をもって、交流しましょうといことですね。
長い文章になってしまいましたが、ここで紹介したのは、本著のほんの一部分です。
この本を読んで、「幸福」の答えとは違いますが、幸福とは何かを考える上でのヒントを得られたような気がします。それは、普段の生活にある何気ないものであるのかと。それ以外にも、幸せを感じることやモノは、個々人によって違うと思いますが、私の幸せは、読書ということにしておきましょう。笑
まだ人生は長いので、幸せとは何かを探りながら、日々を過ごしていきます!
とりあえず!
今日は、そんなとこで。